富名腰義珍
富名腰義珍は明治3年(1870)首里の山川村に富名腰義枢(筑登之親雲上)の長男として生まれた。 明治20年(1887)沖縄師範学校講習科を卒業し、首里尋常小学校の代用教員となった。 唐手術の修業で最初に入門したのが湖城大禎(1837~1917)であった。 湖城大禎は実践派の名手で、50歳を過ぎても二拳をもって牛を倒したと言われる。 弟子を取ることを嫌い、もっぱら1人稽古に励んだ湖城大禎は、入門してきた富名腰義珍を3ヶ月で破門している。 先行きに見込みがないと言う理由であった。 しかし、富名腰義珍は唐手術の修業を諦めず、翌年、安里安恒の門に入った。 安里安恒は若い頃から村松宗棍について北派少林拳と示現流剣術を学び、村松の後継者と目されるほどの実力者であった。 村松は、富名腰義珍が5尺たらずの身長と非力な体力であったため、その体質にあった「クーシャンクー」の形を教えたという。 反復練習することによって、他の形も自然に学べると考えたからだ。 富名腰義珍が安里安恒のもとで唐手を学んだのは2年前後だったといわれている。 その後、大正7年(1918)摩文仁賢和の設立した「唐手研究会」に参加。 翌年、首里手の大家・屋部憲通の推薦により、師範学校の予科生徒に唐手術を教えるようになった。大正10年3月、ヨーロッパ巡行の途路沖縄に立ち寄られた皇太子殿下(昭和天皇)の歓迎演武会に出席。翌年5月、第1回体育展覧会に招かれ演武。 形演武を見た柔道の嘉納治五郎が自分の門下生に「クーシャンクー」の指導を要請。このことが富名腰義珍に本土長期滞在を決意させるきっかけとなった。 その後、沖縄県人学生寮「明正塾」に住まい、唐手術の普及に当たる。 大正13年(1924), 東京に唐手術研究会を設立し、初代会長となる。 昭和14年(1939)、大日本武徳会より空手術・練士号を授与され、東京豊島区雑司が谷に『松濤館道場』を開く。 東大、慶応、早稲田、拓殖の各大学で指導にあたり、昭和24年日本空手協会の発足とともに首席師範となった。 昭和32年(1957)没。 行年88歳であった。