神道揚心流柔術

流祖大塚博紀は、明治38年(1905)4月、14歳の時より神道揚心流柔術師範、中山辰三郎の門下となり、後に和道流の基礎となる柔術の修行を始める。 大正9年(1920)6月1日、流祖29歳の時に同流の免許皆伝を允許される。 そして神道揚心流柔術3世、中山師範の遺鉢を継ぎ第4世を継承する。 神道揚心流柔術は流祖松岡克之助により創始され、二世を猪瀬元吉、三世中山辰三郎行儀と継承され、四世を大塚博紀が継承した後は、その技術体系が和道流柔術拳法の中に組み込まれる事となる。

神道揚心流柔術は、元治元年(1864)、松岡克之助尚周が揚心流を基礎とし、天神真楊流、揚心古流を併せ、直心影流剣術の理合を取り入れて創始。 その基礎となった楊心流は、その始祖を源九郎判官義経とし、中興の祖を秋山四郎兵衛義時(1600年前後の人)としている。
揚心流中興の祖・秋山四郎兵衛義時の出自、経歴はほとんどあからかになっていない。 長崎在住の漢方医で、医学旅行のため渡った中国で、博転と言う江南人から拳法の形を3つ伝授され、さらに武官という人物から、「捕手三手」と「活法二十八手」を学んだとされる。
但し、それらの技法に満足せず、帰国後、百日間大宰府天満宮に参籠し、「捕手三百三手」を創案。 天満宮の楊に降り積もった雪を見て、楊心流と命名したとされる。 しかし、同じく楊心流の流れを汲む、天神真楊流と技名が同じため、この秋山四郎兵衛義時の話は後に創作されたものとも言われる。

神道揚心流柔術流祖、松岡克之助は福岡県黒田藩、藩医松岡道林の次男として生まれる。 克之助が17歳の時、父道林が江戸詰となった為に江戸に移り住む。 江戸の幕府講武所にて楊心流柔術を学び後、浅草境内に道場を開き柔術剣術の指南をなす。 この時に流名を神道揚心流柔術と改称する。 その後、克之助の修業が幕府講武所より認められ、幕臣に執りたてられ下総常陸の幕領地見回り役代官に栄進する。 廃藩置県後、常陸国上野村に移住し柔術と剣術を指導する傍ら、接骨医療を営み近隣に高名を残す。

神道揚心流柔術三世、中山辰三郎は、明治19年、神道館道場に入門し松岡克之助尚周より柔術と直心影流剣術を学んだ。 18歳の時、松岡の推薦により幕府講武所・男谷精一郎信友の流れを汲む直心影流の箱守与三郎祐郷の所に入門。 また、明治31年、松岡克之助の死後、一刀流の修業も始め、明治39年小野派一刀流の高野佐三郎師範から「剣道特業証書」も授与されている。 中山は柔術のみならず、剣術に関しても折り紙つきの腕前であった。