和道流空手動連盟

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歴 史

和道流は、初代大塚博紀先生(明治25年6月1日生―昭和57年1月29日歿)によって昭和9年に創始された、最も日本化された空手である。日本化とは何かといえば、沖縄伝来の唐手を日本武道の理合と技法により、洗煉し再構成して、護身術的、小乗的存在に過ぎなかった唐手を、武道的、大乗的な存在にしたということである。

なぜそれが出来たのか? それは、流祖が明治30年4月から、母方大叔父である旧土浦藩武術指南役・江橋長次郎の指導を受け、その後明治38年4月から、神道揚心流柔術第三世・中山辰三郎行義師範に師事し、大正9年6月1日に免許皆伝を得て、同日神道揚心流第四世を継承した柔術の修業者であったからである。神道揚心流とは、松岡克之助の創始になり、第二世は猪瀬元吉、第三世中山辰三郎と続く道統であり、天神真楊流と揚心古流の長所を併せた流儀である。大塚師範は大正11年7月より、船越義珍師範の指導、本部朝基師範、摩文仁賢和師範との技術交流等、空手の研究に取り組み、柳生新陰流、富田流小太刀の体捌など、剣術、柔術諸流の特長を取り入れ、辛苦の末に完成させたのが和道流の一大体系であった。

和道流の真諦は、流祖の道歌「武の道はただ荒事とな思ひそ 和の道究め和を求む道」に尽くされている。当流の修業は、「敬、愛、禮」の位に則り、争うより至難の和を求めることを目的とする。時代の流れに即応した和の理念を究めるために、高度の知識と、あらゆる困難に打ち克つ不屈の意志、頑健な身体を養成するのである。その修業の階梯は広大にして深遠であるが、形、組手、逆投、居捕、立合、短刀捕、真剣白刃捕、女子護身術等々、空手から柔術拳法に到る綜合性の中で学ぶ身体上、精神上の意義は、まことに大なるものがある。技術的には、流す、往す(いなす)、乗るという技法に典型的に現れているように、先で抑え、後の先で制し、先先の先で機の起りを封じ、千変万化して和を恢復するまで止むことがない。日本武道の積極性の表現であり、精華である。

和道流の名乗りは、昭和4年、「日本古武道振興会」の設立と共に、その入会時に称したのが始まりである。神州和道流とも称したが、いずれも上記の「和」の精神に則ったものであることは明白である。組織としての和道流は、大日本空手道振興倶楽部、大日本空手道振武会、大日本武道振興会、全日本空手連盟等々、時代によって数種類の名称があるが、一貫して変らないのが流儀としての和道流であり、和の道の追求であった。

昭和13年、大塚師範は大日本武徳会から錬士号を、17年には達士号(旧教士号)を授与され、19年には空手道首席師範に任命されたが、20年の終戦以来、武道は苦難の道を辿ることになる。併しそれも徐々に恢復し、和道流は世界中に大きく伝播して行く。

昭和41年、大塚師範は、空手道普及の功により、勲五等に叙せられ、双光旭日章を授与、47年、国際武道院・国際武道連盟(大勲位・東久邇稔彦総裁)より、空手道初代名人位十段を受けた。この時、柔道初代名人位は三船久蔵、剣道初代名人位は中山博道両氏であった。

流祖は、昭和56年12月20日、二代宗家を嫡子次郎に継承させ、翌57年1月29日、齢90で帰幽、武の道、和の道に捧げた生涯を閉じた。生前各界に寄与した役職は、財団法人全日本空手道連盟元老、国際武道院・国際武道連盟常任理事・審議員、柔道有段者会・柔道整復師会顧問、日本古武道振興会常任理事、明治神宮至誠館技術顧問、日本大学講師等々である。

現在和道流空手道連盟は会長・三代宗家・最高師範大塚博紀先生の下、世界各地に支部を擁し、武の道、和の道の研鑽に励んでいる。道に志す人は来たれ。